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それぞれの役割が伝統を維持する。津軽塗職人の今氏と、職人が作った作品を世に広める石岡氏が描く将来の津軽塗

青森県/Aomori

津軽塗りとは

「津軽塗」の正確な定義というものは実は存在しません。一般的には津軽地方で生産される伝統漆器を津軽塗と呼んでいます。津軽塗の特徴は、固くて丈夫で実用性に富んでいると同時に、非常に優美な外見を持つ、というところにあります。
津軽塗で用いられる「研ぎ出し変わり塗り」という技法は、幾重にも塗り重ねた漆を平滑に研ぎ出して模様を表す方法です。この繰り返しに数十回の工程が必要で、期間として60日以上の日数を費やすことで、複雑で美しい漆模様と、頑丈でしっかりした触感が得られます。

津軽塗りの歴史

次に津軽塗りの歴史に迫りましょう。地元の人にとって津軽や津軽地方という言葉はよく馴染んでいる言葉ですが、この津軽地方とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称です。江戸時代に津軽氏という人物が支配した領域なので、このように呼ばれています。
津軽塗の成立は江戸時代中期(1646~1710年)と言われています。この時代の政治情勢は 安定していて、それぞれの地域の商工業も徐々に発展していく様相を見せていました。 流通が発達し、京都・大阪・江戸の文物が地方に伝わるようになった結果、それぞれの地域の産業を保護するようになり、 この時期日本全国で多くの工芸品が誕生し、普及・発達し始めました。

その当時、津軽にも全国から多くの職人・技術者がくるようになります。 1676年頃には、既に弘前城内の一角に、塗師の作業場があったことが、当時の図面により明らかになっています。
その職人の中に、若狭国(現在の福井県)の塗師、池田源兵衛という人物がいました。 源兵衛は1685年に江戸へ行き、塗師の青海太郎左衛門に入門しました。 源兵衛は翌年に亡くなってしまいましたが、息子の源太郎は、蒔絵師山野井のもとで修業をしました。 その後 1697年に亡くなった父と同じように青海太郎左衛門に入門し修業を積みます。
やがて源太郎は青海一門の一子相伝(注:自分の子だけに伝えること)の秘事「青海波塗(せいかいはぬり)」を伝授されます。 太郎左衛門の死後、津軽に帰った源太郎は1727年に師匠の姓と父の名を継いで、青海源兵衛と名乗るようになりました。 この間もこれ以後も、青海源兵衛は今まで学んだ技術に独自の創意を加え、津軽の地で新たな漆器を生み出していくこととなります。

この時期に各地で発達した漆器全般がそうですが、弘前(津軽)で発達した漆器も、 当初は武士が腰に差す刀の鞘を綺麗に彩るために用いられました。 刀が武器としてではなく、装身具として見られるようになったのは、戦争があまりなく平和だった当時の状況ならではです。 やがて刀の鞘のみならず、様々な調度品が津軽塗で彩られるようになりました。

津軽塗の工程

津軽塗りは、下地も合わせると約40もの工程、日数にすると約60日。ものによってはそれ以上の歳月をかけてようやく完成します。 また、その美しい模様は、丁寧過ぎるほどの下地処理と、漆を塗っては乾かして研ぐことをひたすら繰り返すことで生み出されます。丁寧作られてさらに頑丈であるということから 「津軽の馬鹿塗り」とも呼ばれることもあります。

石岡氏が思う今と今後の津軽塗

最初に、現代で津軽塗が日本国内でどのような印象を持たれているか聞いたところ、最近は青森県外の人が高価な津軽塗を購入している傾向があると話してくれました。頻繁ではないものの、メディアが津軽塗とその工程の大変さと模様の美しさ製品の丈夫さを伝えてくれるそう。​それを見た青森県外の人が​津軽塗がいいものだと知ってくれ、なぜこの津軽塗は値段が高いのか。それ相応の値段がする理由などを調べられて納得してから買われている印象があるとのことです。少しずつ認知は広まっているものの、さらに認知度は広げたいと石岡氏は話してくれました。

ただ、今以上に津軽塗の認知を広げたいと思うが、東京都内でも津軽塗を扱っている店舗では津軽塗フェアのように期間限定で扱っているお店がほとんどとのこと。今後は年間を通じて扱ってくれる店舗を増やしたいと話してくれました。また、海外での販売も行ったりしているが、今は日本国内でもっと知名度を広めて足場を固めることを優先したいと考えているそう。

石岡氏(青森県漆器共同組合連合会会長)の生い立ちと津軽塗に思うこと

ここで、石岡氏の生い立ちに迫ってみましょう。


石岡氏は祖母が津軽塗屋の娘だったこともあり、家には当たり前のように津軽塗があり、 大きくなってから自分も津軽塗をやるのだろうと意識をしていたそう。 大学は宮城県の大学を卒業し、その後は漆器を扱う東京の商社で5-6年勤務。 東京での仕事は、漆器を作っている職人さんから漆器を買い、それをデパートなどに卸す仕事をしていたので、どのように商品が作られ、売られ、お客さんの手に届くのかを全部自分の目で見ることができ、しっかりと勉強できたと語ります。 そして、実家に戻り家業を継ぐことになりました。

津軽塗を売っていて嬉しいのは、やはりお客さんが喜んでいる時。 それとは逆に津軽塗の売り上げや知名度が下がっていると感じる時が1番苦しいという思いを教えてくれました。
その他にも辛いことはあったそう。ある日、海外の方に津軽塗の工程をしっかりと説明し、何度も何度も塗りを重ねてここまで綺麗な津軽塗ができるのだと海外の方に説明したところ「そこまで時間をかけて何度も塗るのではなく、数回塗って完成とすれば早く済むしいいんじゃないか?」と言われたこともあったそう。それでは本当の津軽塗ではないし、今まで守ってきた伝統工芸ではなくなってしまうと少し複雑な気持ちになったこともあると話してくれました。
津軽塗は長い工程を経るからこそ滲み出る津軽塗の良い部分があり、代々受け継がれてきた素晴らしい漆器。これをちゃんと残していきたいとのこと。

そして石岡氏が弘前に戻ってきた頃は津軽塗の職人は200人くらいいたが、今は100人を切っているのが現状。後継者はいて欲しいと思うし、海外の方が津軽塗に惹かれて弟子入りするというのも嬉しいと笑顔で話してくれた。

津軽塗職人 今氏

そして、津軽塗の作り手である今氏にも話を聞けました。

今氏は中学校を卒業して実家の家業であった津軽塗の仕事を始めます。今氏も小さい頃から当たり前に津軽塗が身近にあった為、将来は津軽塗を仕事にして生きていくと感じでいたそう。最近では今氏の息子も津軽塗職人としてのキャリアをスタートし、自分の技法やスキルを盗み見ながら仕事を覚えてくれているそうだ。

実は息子さんが津軽塗職人として生きていくと決める前に「この仕事はお金を稼げないが、それでも良いなら」と念押しをしたそう。というのも、津軽塗の工程は既に紹介した通り、1つの作品を作るのにかなりの日数が必要となる。また、工程が幾つもあり、ずっと続けていくにはかなりの精神力が必要。それでも息子が後を継いでくれて、工房で仕事をする今氏はとても楽しそうに見えた。

今氏もまた、自分の作った津軽塗が売れた時が1番楽しいと話す。長い工程と時間をかけて 丁寧に作った津軽塗は、使ってくれている人の手に馴染み長く使え、必ずや使っている人を気持ちよくしてくれるからだ。

青森県漆器協同組合連合会
青森県弘前市神田2-4-9  弘前市伝統産業会館内
http://www.tsugarunuri.org/