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盛岡で南部鉄器を作り続けて400年 鈴木盛久工房16代目の成朗氏が見据える将来の伝統工芸

岩手県/Iwate

南部鉄器と盛岡藩の歴史


盛岡の南部鉄器は慶長年間(1596年-1615年)に、盛岡藩主である南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれている。南部氏は現在の岩手県と青森県にまたがる南部地方に勢力を持っていて、ここで南部盛岡藩の基礎を築いた。それから数年後に南部利直(なんぶとしなお)の時に南部盛岡藩が形成され、南部利直は初代藩主となる。ちなみに、南部氏の本領は元々は甲斐の国(現在の山梨県南巨摩郡南部町)であり、その集落の名前を取って”南部氏”と名乗ったとされている。

盛岡南部鉄器の歴史を紐解く上で欠かせないのが、その礎を築いたとされる小泉氏・鈴木氏・有坂氏・藤田氏の4家の鋳物師だ。この4家はすべて盛岡の出身ではないが、南部盛岡藩に御用鋳物師として召し抱えられた。

ただ、単純に4家の鋳物師が揃ったからといい、それだけで南部鉄器が順調に発展するわけではない。南部盛岡藩主の理解と保護があったからこそ南部鉄器は発展してきた。特に二代目藩主である重直(しげなお)から八代目藩主で有る利雄(としかつ)までの七代の間は茶道についての知識が広く理解も深くあったため、茶道の発展にも大きな影響を与えた。

この盛岡藩主と4家とで茶道を発展させ、そして茶器を広めていった為、盛岡南部鉄器が多くの人に知られるようになった。
※現在の南部鉄器は、盛岡の南部鉄器と、奥州の水沢鋳物の総称。それぞれの歴史は異なりますが、ここでは盛岡の南部鉄器の説明のみとします

南部から盛岡へ


「盛岡」の名は、1691年に当時の藩主であった南部重信と盛岡城鬼門鎮護の寺院として置かれた永福寺の第42世・清珊法印との間で交わされた連歌に由来している。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つとされ、とても素敵でめでたい言葉を使っている地名だ。のちに藩名も「南部」から「盛岡」へと改められた。

鈴木盛久工房とは

次に今回取材した鈴木家に関して。鈴木家は寛永二年(1625年)鈴木越前守縫殿家綱が南部家の本国甲州より御用鋳物師として召し抱えられ、仏具、梵鐘などを鋳造して代々藩の御用を勤めてきた。今でも伝統の技術を守りつつ制作を続けている。現在の当主は15代目の志衣子氏で、15代目鈴木盛久の名を継いでいる。そして志衣子氏の息子で16代目(正式襲名はまだ)の成朗氏も工房で制作を行なっている。

南部鉄器の工程

では、南部鉄器はどのように作られて、どのように完成に至るのか。それぞれの工程を説明していく。
①型挽き
木型を用い実型(銅型と底型に上下分かれた型、素焼きのレンガのような材質で出来ている)に荒挽き、中挽き、仕上挽きと荒い砂から絹真土(絹で濾した細かい砂)までを使い鋳型をつくる。

②霰押し
仕上げ挽きが終わり、型が乾燥しないうちに霰押し棒で1個1個押してゆく。
一般的な押し方は1段目の霰と縦に重ならないように霰と霰の間におしつけてゆく円周が大きくなる時は霰の粒径を大きくする。

③肌付け
川砂に埴汁(粘度を水に溶いたもの)を加えたものを団子状にしてそれで型の肌面に軽く打ち付けるようにして肌を置く又、布を丸めたタンポや筆で肌を表現する。
形や模様により使い分け鉄器の表面に微妙な肌合いがあらわれる。

④吹き(鋳込み)
一般に鉄瓶工房のように溶解量が少ない場合は、甑と呼ばれる小型の溶解炉が使用される。
鉄の溶ける温度は1300℃〜1400℃になる。

⑤着色
漆を加熱した鉄瓶に焼付け、下地をしその上に鉄漿液(おはぐろ、さびとも言う、酢酸液に鋼片をいれ1年以上放置したものにお茶の煮出した液をあわせるお茶の量の多少で黒から茶の色の違いが調整できる)を塗り色調を整える装飾的な効果と錆び止めの効果がある。

なお、これとは別に「真土」(まね)と呼ばれる鋳物土を混ぜる作業も必要だ。川砂・粘土・水で様々な種類の土を配合を変えて合わせている。

16代目の鈴木成朗氏

今回、16代目であり鈴木盛久工房代表取締役の鈴木成朗氏に話を聞くことができた。
成朗氏は1972年5月14日に15代目鈴木盛久である母の元に3人兄弟の2人目として生まれる。ちなみに兄と妹がいる。小さい頃、現在の鈴木盛久工房は母の父親(鈴木氏の祖父)が住んでいた場所だった。そのため、母親の実家は南部鉄器が製造されている場所だという認識があり、この頃から南部鉄器の存在を知り実際に触れていた。


盛岡で生まれた成朗氏は高校までは地元の盛岡でテニス部として活躍していて、高校3年生の夏までテニスに真剣に取り組んでいた。
そして、高校2年の冬に美大進学を決意する。目指したのは東京芸術大学だった。ただ、東京芸術大学はそう簡単に入れる大学ではない。まずは、東京の美大専門の予備校に通うようになる。

予備校では最初にとにかくデッサンの技術を高めることに力を注いだ。成朗氏に話を聞くと、年間で数百枚もデッサンをしていたらしく、デッサンの技術は間違いなく上達したそうだ。そこまで繰り返し続けていると、対象物やモノの見方が徐々に変わってくるそうだ。物体の奥行きや光の強弱、そのものをどう表現すれば1番よく見えるのかなど、普段の生活では使わない神経を使って物を見ていたという。

そして、見事に東京芸術大学の工芸科鋳金専攻に入学となる。

卒業後

4年間の大学生活が終わって卒業を迎える際、地元に戻り鈴木盛久工房に勤めることはしなかった。社会に出て一般の会社がどのようになっているのか?芸術以外の仕事で社会の人と繋がりが欲しいという考えから南部鉄器の仕事ではなく、まずはアルバイトとして手伝っていた予備校の講師として働くことになる。また、他にも仲間と出資し合ってアトリエを立ち上げたりもしたそうだ。

27歳の時に兄に誘われる

卒業してからも芸術の分野に片足を置いていた成朗氏だが、社会性の欠如を感じ、社会人として就職したいと考えるようになった。そんな時、スタイリストとして仕事をしていた兄が自身のファッションブランドを立ち上げたので、一緒にやらないかと誘ってきた。小さい頃から同じ環境で育った兄弟だからこそ、兄がどのような事を良いと思い、どのような事にあまり納得していないのかが感覚的にも分かっていた為、新しくビジネスを学ぶ機会にもなると考えた成朗氏は、この誘いに乗ることを決意する。
グラフィックデザイナーとして入ったが、立ち上げたばかりの会社であり少人数だったため、取引先との商談、アイテムの生産、在庫の管理、商品の発送、メディアとのやりとりなど、色々な仕事に携わることができたそうだ。

13代の曽祖父、14代の祖父、15代の母の存在

話は前後して、ここで鈴木盛久工房の歴史を少し説明する。
実は16代目の鈴木成朗氏の旧姓は熊谷である。
成朗氏が10歳の時に14代の祖父が他界した。急な病気だったため15代を決めることもなく亡くなってしまった為、一時後継者不在の状況だったそうだ。
そんな時に成朗氏の母であり、当時は専業主婦として家庭にいた熊谷志衣子氏が「私が跡を継ぐ」と自から立候補した。実は志衣子氏は武蔵野美術大学を卒業してジュエリーを作っていた過去がある。けれども主婦であった母が急に後継者として自ら手を上げた時には、さすがに成朗氏も驚いたそうだ。

熊谷志衣子氏は14代の長女であり旧姓は鈴木であったが、嫁いだため熊谷姓となり、そのまま雅号である鈴木盛久を襲名している。なお、女性が継承するのは鈴木盛久工房では初のことだ。

そのことから、成朗氏は盛岡に帰るまでは熊谷姓であった。正統な世襲でありながら今後も鈴木姓を継承するため、2008年に祖母の養子となる。
次男ということと、鈴木姓を継承したいという思いから、本人にとって早く決断できたそうだ。

そして、さらに遡ると13代の鈴木繁吉氏は南部鉄器の歴史上唯一の無形文化財(人間国宝)に1974年に指定された。こんなエピソードもある。日中戦争が始まった1938年に「鉄統制令」が施行され、その3年後には鉄製品の製造が全面的に禁止となり,南部鉄瓶も断絶の危機に瀕した。繁吉氏は伝統を守るため何度も政府に陳情に行った。その結果,優れた工人16名に限り年間20個以内の製造を許され,繁吉氏もこの一人に選ばれた。
その後も1943年に「南部鉄瓶技術保存会」を結成し、南部鉄瓶の技術の継承するなど、南部鉄器の存続の危機を救い伝承した、いわば南部鉄器のレジェンドのような存在だ。

14代の鈴木貫爾氏は東京芸術大学の教授だった。自分でも活動をしながら、後進の指導を行うなど、13代から引き継いだ意志を後世に繋いでいった。作品としては、歴史・文学・宗教・動物などをモチーフに、伝統技術を生かしてそのイメージを造形化し、そこに現代的な感覚を加味した多くの作品を残した。貫爾氏の代表作である「江碧鳥逾白」をはじめ、多くの作品が岩手県立美術館に収蔵されている。

2008年35歳の時に盛岡に戻る

成朗氏が結婚した35歳の時、手伝っていた兄のブランドを退職し、生まれ故郷の盛岡に戻ってくることになる。

戻ってきてからは南部鉄器の発展と伝承に尽力している成朗氏だが、当時はまだまだ知らないことも多かった為、古くからいる職人さんから基礎は教わったそうだ。

そして仕事に励んでいた2011年に東北地域で震災が起こってしまう。だが、その前から上海万博で南部鉄器と中国のお茶が一緒に展示され、中国のお茶と南部鉄器との相性が良いという認知が広まりつつあった。そして、震災後に中国の方が多く盛岡まで来るようになり、今の人気に繋がっている。現在、鈴木盛久工房が作る南部鉄器は比較的購入しやすい商品は1-1.5年待ち、高価な物は3年待ちの状態だそうだ。

成朗氏の活動と、今感じている課題

母の南部鉄器に対する思いや、それを見つつ東京で様々な経験をした成朗氏は、南部鉄器が今以上に日本をはじめ世界で知られるために様々な活動を行なっている。

その中でも、地域を愛してそれぞれのプロダクトの特色を生かし、日々技を磨いている若い人に注目している「LEXUS NEW TAKUMI PROJECT」2017年岩手代表に成朗氏は選ばれている。現在の日本は地域独自の価値や魅力を高め、地域から日本全体を活性化すること、すなわち地方からの創生が大きな課題となっている。昨今、多くの外国人が日本に来てくれているが、今以上に日本独自の魅力を海外に発信し、今以上に地域経済を活性化していきたい。

しかし、その為には地域と連携して解決していかなければならない課題もある。
例えば、鈴木盛久工房は昔の建築基準で建てた古い建物かつ火を扱うということもあり、増築してスペースを増やすことができないのだ。その為、新しく南部鉄器を製作する場所を確保するとなると市街地から離れている場所に建てるしか方法がない。離れた場所に建てるという選択肢もあるが、市街地から離れた場所にあると観光客の方が来るのが難しくなってしまう。今ある南部鉄器を、昔から作ってきた今の場所で地元の人や観光客にも知ってもらうには、南部鉄器を製造している工房と行政が共同で製造所を街の中心に建てるなど、工房だけでは解決できない課題が存在する。

一方、地元盛岡や日本国内での認知度拡大や中国での人気もあり、最近では職人候補を募集すると応募が集まるようになってきたそう。だが、既述したスペースの問題もあり、なかなか人数を増えせないということもあるそうだ。日本の伝統工芸を受け継ぎたいという若い力が存在しているが、その力をなんとか活かしたいと成朗氏は考え行動をしている。

色々な葛藤がある中でも、これからも日本の伝統を広く深く知ってもらう活動をしていきたいと、成朗氏はしっかりと未来を見据えていた。

鈴木盛久工房
〒020-0874 岩手県盛岡市南大通1-6-7
Tel : 019-622-3809
営業時間:9:00~17:00
定休日:年末年始、お盆休み、イベント出展時(詳細はHPを参照ください)
http://www.suzukimorihisa.com/