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古来の備前焼を復元した平川氏 土窯を再現するまでの苦労と、今後の工芸=アートとしての広がりへの期待

岡山県/Okayama

備前焼とは

古くから焼き物作りが行われてきた日本。もっとも古いのは縄文時代に作られた縄文土器と言われている。そんな日本では、全国各地に様々な陶磁器の産地が点在しており、国の伝統的工芸品に指定されているものだけでも30種類以上ある。

今回は数ある陶磁器の中でも、岡山県で作られている備前焼を紹介する。

備前焼の歴史

備前焼は、岡山県備前市の周辺で作られている炻器を指す。日本六古窯の一つに数えられ、備前市伊部地区で盛んであることから伊部焼(いんべやき)との別名も持つ。
炻器は、陶器と磁器の中間的な性質を持つ焼き物で、1100~1250℃で焼成するのが特徴だ。絵付けや施釉などは行わず、土そのものの風合いが楽しめる。

また、その歴史は古く、古墳時代の須恵器(すえき)の製法が次第に変化したものが備前焼の元になっており、平安時代末に熊山(岡山県東備地域で一番高い山)や、その周辺の山々の山麓で生活用器の碗・皿・甕・鉢や瓦などが生産されたのがその始まりといわれている。

鎌倉時代には、主に壷・甕・すり鉢が多く作られたが、この頃から次第に現在の備前焼特有の赤褐色の焼肌のものが焼かれ始めた。

※日本六古窯は備前焼は越前焼(福井県越前町)、瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、常滑焼(愛知県常滑市)、信楽焼(滋賀県甲賀市)、丹波焼(兵庫県丹波篠山市)をさす

窯の重要性

焼き物を作るには、焼くための窯が必要である。昔の備前焼の窯は山の斜面に溝を掘り、くり抜いた土を利用してアーチ状の天井をかけるという単純な構造だった。その窯は江戸時代の終わり頃から土をブロック状に叩き固めたものを使用し、窯の中を部屋で区切る構造(登り窯)が登場するまで続いた。そして近代になると耐火煉瓦の生産が始まり、備前焼も煉瓦製の窯へと移行した。

平川氏が気づいた、窯の過去と今

今回取材したのは平川窯の平川忠氏。平川氏に関しては後ほど触れるが、まずは平川氏が考えている窯に関して先に説明しなくてはならない。

平川氏が備前焼の修行をしている時、備前焼を作っている人の中では「ひよせ」という最高級の土を使うのがいいとされていた。その頃から土が気になってきたという平川氏は、どんどん土に興味を持っていくうちに、昔の備前焼を見ていくと土の質感、焼き方が現代と違うということに気が付いてきた。疑問に思った平川氏は色々な人に昔はどのような焼き方をしていたのかという質問を投げかけてみるが、聞く人聞く人みんな同じ答えしか返ってこない…。そして、平川氏のところに知り合いがきた時に、古い時代に備前焼をどのように作っていたのかという、自分が今まで他の人に聞いていた質問を受けたそうだ。

その時の平川氏は返答ができず、伝統を誇りにしている備前焼を作っている1人としてこれではいけないと感じたそうだ。

これをきっかけに昔の備前焼のルーツを知るために平川氏は山の中へ入るようになる。山の中で何が見つかるかは分からないが、いつか何か分かるかもしれないという一縷の望みとまでも言えない自身の感覚だけを信じて時間を創っては山に登る行為を繰り返したそうだ。

山に登り続けていたある日、雨上がりに山に入ると、どこかから木が燃えて灰になった匂いがしてきたそうだ。雨上がりには色々なものに水分が入り込み、通常より土の匂いや植物の香りがするが、あの状況だ。山火事とかではなく、何かが燃やされた匂い。地面を触ってみると、そこから陶片が見つかった。また、その場所には人工的に掘られたであろうくぼみがあったそうだ。
それを境に、平川氏は土を検証したり、知り合いになった地質学者や考古学者と一緒に昔の備前焼がどのようにできていたのか再現するため本格的な取り組みを始めるようになってくる。

その結果、昔は土だけで窯を作り、それがとても効率的で理にかなった焼き方だということが分かってきたそうだ。これが平川氏がたどり着いた土窯だ。

土窯(つちがま)とは

土窯は平川氏による造語で、備前焼中世古窯の構造の窯を指す。現代の窯と窯の素材や形状、そして煙突の有無などのいくつもの大きな異なる点があるのが特徴。現在の日干し煉瓦や耐火煉瓦のように突き固められることなく、自然の土の柔らかさそのままに壁や天井ができているため、独特の熱を生み備前焼本来の焼成の源泉になっていると平川氏は言う。さらに土窯は窯を作る段階から焼成の全ての工程が自然素材によって賄われる自然循環型の窯であるため、現代の地球環境に適応した理想的な窯であると言える。

平川氏

今回取材させてもらった平川氏、山に入り続けて古来の備前焼の窯を再現するほどの執着心と探究心だが、昔はどのような状況だったのか聞いてみた。

伊部に生まれた平川氏。祖母は女性で初めて備前陶工となった方で、父親も備前焼の陶工という家に生まれた。
幼少期は山や川や池が遊び場でメダカを捕まえていた。1人の時は絵を描いていて、特に船の絵を描くのが好きだったそうだ。伊部は港町ではないが、船が好きで外国航路の船の断面を想像で書いていた。当時から妄想が好きだったそうだ。

そして、自分には得意なものがないと思っていたそうだ。実際に工作なども得意ではなく、5段階評価の中で2。特に秀でているものはなかった。ところが中学に入学した時の美術の先生と出会ったのがきっかけだった。土で拳を作る授業で10段階中10の最高評価をもらい、とても褒められたそうだ。それをきっかけに自分は何かを作る方向に行こうと決めたとのこと。

大学は石川県にある大学で建築のデザインを専攻する。暇を見つけては色々な建築物や景色などを見に行き、特に大学2年生の時に行った京都の景色は今でも脳裏に焼き付いているそうだ。

企業への就職

就職は建築をデザインする仕事に就く。しかし入社して半年後に人事から連絡があり、来月から秘書課に配属だと言われたそうだ。そう言われた平川氏は、秘書をやるために会社に入った訳ではないと、あっさりと会社を辞めてしまう。

その次は古民家再生の仕事に就いた平川氏は、ここでも妄想力を発揮してしまう。どうしても、古い建物を見ると妄想が止まらず、どんどん想像が膨らんでしまうそうだ。そして400年くらい前の大きな家を改装するプロジェクトを担当し、これをきっかけに他の注文が入るようになり、仕事が軌道に乗ることになった。

だが、この仕事でいけるのではないかと思っていた時に父親が体調を悪くしてしまい、これをきっかけに家業に戻ることになる。

父と親戚に焼き物を教わる

実家に戻った平川氏は、まず父親から備前焼のいろはを教わる。電動ろくろを使わない父親だったため、平川氏も電動ろくろは使わず、手びねりの備前焼を教わる。備前焼の基本を教わったところで、ある程度のことは教えたからあとは自分でやってくれと、野に放たれることになった。

その後、まだまだ技術を学びたい平川氏は親戚の工房に修行に行くことになる。だが、親戚だからと行って甘やかされることは一切なく、まずは1年間は掃除だけという日々を送った。その1年間は物の場所とかを覚えたり、師匠の仕事を見ているだけだったそうだ。結果、親戚の工房で3年間、父親から2年間の合計5年間修行して独立することになる。

土窯プロジェクト

修行を終えたのち、先述した土窯を復元することになった。だが、そんな土窯の話はここで終わらない。

土窯を作った平川氏の評判はアメリカに広がり、テキサス大学の要請によりアーカンソー州で土窯を築き、そこで焼き物を作ることになる。
依頼を受けた当初、平川氏は短い期間での築窯や、土の状態も分からなかったため、さすがに無理かもしれないと思っていたそうだ。だが実際行ってみたところ、アーカンソー州はネイティブアメリカンが居住していた地域であり、昔から土器が作られていた場所だった。そして、その土器を見て触った瞬間に、これならできるのではないかと思い、実際にそれをやってしまった。

その結果、土窯そのものがランドアートをして認められ、工芸という領域に加え、アートの分野にも新たな一歩を踏み出すことができたと話してくれた。

後継者について

現在、平川窯には赤井氏という後継者がいる。最後に平川氏から赤井氏に今後の備前焼と赤井氏に向けて言葉をもらった。

平川氏は、赤井氏にこの時代のニューリーダーになってほしいと思っている。
平川氏が見つけるまで失われた備前焼の古来の技術。それを復元できたことは備前にとってとても重要なことである。文化として伝える時になくてはならない技術と情報の二つがここにはある。これは色々な人のおかげで復元でき、それを赤井氏に伝えることができた。
だが、これで満足ではなく、まだ知らない部分を求めて、土窯をもっともっと追求していって欲しいそうだ。
赤井氏は小さい頃から土や自然に触れて育っているので、この技術と情報をさらに広げる素質を持っている人であると平川氏は考えている。なので、自分たちの利益として取り込むのではなく、備前の今後として伝えていくようにしてほしい。そして、作家としての赤井氏が今後何ができるのかを常に考えてほしい。

そう最後に目を輝かせながら話してくれた平川氏だった。

平川窯
〒705-0014 岡山県備前市新庄788-1