囲碁の歴史
囲碁の実際の起源ははっきりとはわかっていないが、少なくとも春秋時代には成立していたと見られる。春秋時代紀元前770年から紀元前5世紀までの、およそ320年に渡る期間だ。つまりかなり歴史は古く、『論語』や『孟子』の中には碁の話題が出てくる。
その後5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされている。そのころから日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。
なお囲碁では、自分の色の石で盤面上のより広い領域を確保した方が勝利となる。ルールは2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動することはできない。
碁盤と碁石
囲碁をするには盤と石(黒と白)が必要になる。今回紹介するのは、その碁盤と、黒と白の碁石だ。
【碁盤】
碁盤を作る木材には榧(かや)などの木材が使われている。特に宮崎県産の榧が最も珍重され高価である。伐採してすぐには使えない為、3〜5年程乾燥させてから碁盤へと加工される。なぜ宮崎県産の榧が高級かというと、宮崎県の山は岩場が多く、そこで育つ榧は一年間で成長するスピードが圧倒的に遅い。その遅さ故に木目が詰まっていて重宝されている。近年は榧の大木は国内では非常に稀少となっており、中国産なども使われている。
碁盤上に引かれた線はヘラや筆を使って引く手法の他に、太刀盛り(たちもり)と呼ばれる独特な伝統的手法がある。これは日本刀の刃に黒漆を付け盤面に線を引く方法である。表面に漆が乗るため、線には微妙な盛り上がりができるのが特徴だ。
写真のように、足付き碁盤の裏側の中央部分にはへこみがある。これは「へそ」または「血だまり」と呼ばれる。木材の乾燥による歪みや割れの防止と、石を打った時の音の響きを良くする効果がある。また、血溜まりと呼ばれる理由として、対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられてしまったためとも言われている。
そして、碁盤の脚はクチナシの実の形をしていて、他人の対局に口を出さない『口無し』ということを示唆している。
【碁石】
石の大きさは白石が直径21.9mm(7分2厘)、黒石が直径22.2mm(7分3厘)で、黒石のほうが若干大きくなっているのは、白が膨張色でやや大きく見えるため。このように若干の差をつけることにより、人間の目にはほぼ同じ大きさに見える。厚さは6mm – 14mm程度まである。厚みは号数で表され、25号でおよそ7mm、40号でおよそ11mmで、一般に、厚いものほど打った時の音が響き、高級品とされる。
また、「石」と呼ばれているが素材は必ずしも石材が使われているわけではない。黒石は三重県熊野市神川町で産出される那智黒、白石は蛤の半化石品が最高級とされている。また、蛤の白石には「縞」という生長線が見られ、細かいものほど耐久性が高く、「雪」と表現され、比較的目が粗いものを「華」と呼んで区別している。
ちなみに生きている蛤を採取してすぐに碁石にできるわけではない。
黒木碁石店がある宮崎県日向市
蛤と共に碁石を作ってきた黒木碁石店は、宮崎県日向市にある。この日向市は日向灘というイワシ、マグロ、カツオの回遊する好漁場に面している。温暖で降水量が多い一方で日照時間が長く、日本国内でも上位である。また細島港という天然の良港に恵まれていて、古くから物の出入りが多く発展している場所だった。
黒木碁石店の製品「日向特産蛤碁石」
黒木碁石店の近くにある、わずか4km程のお倉ヶ浜という浜。ここが日向市の蛤碁石製造の原点となっている。この美しい浜辺が無かったら、日本における蛤碁石製造の技術は消滅していたと言っても過言ではない。
宮崎県日向市の蛤が碁石の原料として注目されたのは明治の中頃。富山の薬売りが日向の蛤を大阪に持ち帰ったのがきっかけと言われている。
それまで蛤碁石の主流だった常陸や桑名の貝より厚く、縞(成長線)も緻密なため、その美しさはとても評判になった。そして明治41年、大阪の碁石職人が移り住んでから、日向での蛤碁石の製造が始められるようになった。
以来、日向以外の碁石用蛤の産地は消え、加工技術も日向だけが受け継ぐこととなった。
ただ、日向産の蛤は現在は絶滅寸前で、原料の主力はメキシコ産の蛤に移行している。それでも黒石を含めて蛤碁石が作られているのは、日本唯一、宮崎県日向市のみとなっている。 前述の通り日向産蛤はほとんど採れなくなってしまっているが、僅かに採れた日向産蛤を原料として製造された碁石は『日向特産蛤碁石』と黒木碁石店では表記されている。
碁石職人の那須記男氏(宮崎県伝統工芸士)
今回、碁石職人の那須記男氏(宮崎県伝統工芸士)に話を聞くことができた。
那須氏は昭和30年9月28日に宮崎県の椎葉村(しいばそん)に生まれた。妹が1人いる。中学卒業と同時に仕事を始め、最初は車の板金塗装をしていた。だが、塗料に含まれるシンナーが合わず、気分が悪くなることがしばしばあったという。働きながらも、地道にコツコツとする作業の方が自分に合っているのではないかと思っていたそうだ。
その後、知り合いが碁石の仕事をしていたこともあり、話を聞いているうちに碁石の仕事に興味を持ち始めた。実際に黒木碁石店に入社したいと思い、社長との面接に臨んだが「地味な仕事だから那須さんには合わないのではないか?この仕事は無理だと思いますよ」と言われてしまった。だが「自分も地味だから大丈夫です」とその場で返答し、採用になったそうだ。そして、22歳の時に黒木碁石店に入社をする。
入社してからも職場環境には恵まれていたそうだ。会社の社風が良く、職場の先輩が本当に優しく接してくれたと笑顔で教えてくれた。
中でも冗談っぽく話してくれたが、少しだけ会社に遅刻をしても誰にも怒られなかったそうだ。これは優しさというべきかは不明だが、那須氏にとってはとてもありがたいことだったみたいだ。そして少し遅刻をしても誰よりも早く退社をして、遊びに出かけていた20代を面白そうに振り返っていた。今では宮崎県認定の伝統工芸士だが、昔は若さ故に仕事半分、プライベート半分で充実した毎日を送っていた。
現在、碁石を作っている職人さんんで1番若い方が50歳台。那須氏はこの部分に課題を感じているという。毎日地道な作業の繰り返しだが、少しでもいいものを作りたいと思う気持ちは誰にも負けないという。この素晴らしい碁石製作を少しでも多くの人に知ってもらい、興味を持ってくれる人がいればとても嬉しいと最後に語ってくれた。
今後の囲碁と日向の碁石
今後の囲碁の未来像に関しては、黒木碁石店で執行役員をやられている片田氏に話を聞いた。片田氏は昭和43年9月2日に、黒木碁石店がある日向で生まれた。小学生の社会科見学の授業で、黒木碁石店にきたこともあったそうだ。
現在、黒木碁石店の碁石や碁盤はアメリカ、メキシコ、オーストラリア、EUなど様々な国から購入されている。その要因として、日本の将棋だと字が読めないが、囲碁は白と黒でとても分かりやすいというのもあるのではと分析していた。また、海外では囲碁に興味があるが、売っている場所がほとんどない。そんな中、黒木碁石店は1999年に会社のHPで日本語と英語のページを開設した。そんな経緯もあり、黒木碁石店という日本の会社が高品質な碁石と碁盤を販売していると認知が広がり、今では様々な国から買われているそうだ。
また、こんな話も教えてくれた。日向市では「日向はまぐり碁石まつり」を毎年開催しており、そこに若い人が来てくれる。けれども最近の人はネット碁をスマートフォンを覗きながらやっていることが多いとのこと。ネット碁も面白いが、心を落ち着かせて、道具を手入れして、実際に人と対峙して対局に臨むことも体験してほしい…と。
確かにネットが発展した現代だが、碁石と碁盤を心を込めて作っている職人が存在する。その温もりに触れながら、心を落ち着かせて人と触れ合うのが囲碁を1番堪能できるのではないか。
那須氏と片田氏の思いと今までの生き方に触れ、囲碁の魅力を知ることができた。
黒木碁石店株式会社 (IGO MUSEUM)
〒883-0022 宮崎県日向市大字平岩8491
Tel : 0982-54-2531
営業時間:9:00~18:00
定休日:年中無休
https://www.kurokigoishi.co.jp/