SHOKUNIN

山形県天童市で質の高い手彫りの将棋駒を生み出す、中島氏の展望と将棋愛

山形県/Yamagata

山形県天童市

山形県東部にある人口約62000人の市であり、将棋駒と温泉の街として知られている。将棋の駒は国内生産の95%を占めており、他にも木工家具やさくらんぼも有名だ。

なぜこの天童市で数多くの将棋駒が作られているのか、
その歴史と現在の職人を紹介する。

将棋の歴史

将棋の起源は、古代インドのチャトランガであると考えられている。チャトランガはサンスクリット語でchaturは4、そしてaṅgaは部分という意味がある。つまり、catur-aṅgaは象・馬・車・歩兵の4つの戦力のことを指し示していると考えられている。なお、将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。

将棋駒の発祥と、天童将棋駒の発展

日本最古の駒は、奈良県興福寺の井戸状遺跡から出土した「王将」「金将」など16点で、1058年(天喜6年)と記載された木簡と一緒に発見された。本格的な将棋の駒作りとして伝えられているのは16世紀末の能書家でもあった水無瀬兼成(みなせかねなり)が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の命令によって書き作ったのが始まりと言われている。これらの駒は漆書きの立派な駒で「水無瀬駒」として駒銘の源流になっている。

全国の将棋駒生産の大部分を占める天童将棋駒は、江戸時代に旧天童藩士が内職として始めたことに由来する。当時、この一帯をまとめていた織田藩だが、所領20ヶ村は村山各地に散在していて、その支配統制には大きな困難と支障があった。それに加え、連年の凶作もあり、藩の財政は貧困を極めた。領民に対して高い税金を納めさせたりしたため、下級藩士は家計を補うために内職を行なっていた。将棋駒制作もその一つであった。武士の内職は当時は反対されていたが、将棋は兵法戦術にも通じることから、武士の役に立つとして製造が広まっていった。

駒の種類

押駒(スタンプ駒)
昭和の初め頃から、駒木地に直接スタンプを押したもので、大量生産の時にはこのような駒が多く出回った。

書駒
書駒は、漆で駒木地に文字を直接書いたもので、書体は楷書と草書がある。天童駒の伝統は草書体。草書の書駒は通称「番太郎駒」と呼ばれている。その由来は江戸の町内に木戸番というものがあり、その番人を番太郎と言っていた。この番太郎たちが指す将棋のことを番所将棋といい、それらに使う安物の駒を番太郎駒とか番太駒と呼んでいたためである。

彫駒
彫駒には機械彫りと手彫りがあり、手彫りの方が手間暇がかかり高価である。
字体の難易度により、黒彫、並彫、中彫、上彫と分けられています。この他、水無瀬、錦旗、淇洲など、昔からの格式のある書体を用いたものは銘彫の駒と呼ばれている。

中島正晴氏

昭和36年1月3日に天童市で生まれ、高校まで天童市で育った。2人兄弟で姉が1人いる。
将棋駒で有名な天童市で育ったというのもあり、小学校の頃から将棋には触れていた。ただ、将棋の腕前はというと、弱い方だったそうだ。
今でこそ天童市は街をあげて将棋の普及に力を入れているが、子供の頃は雨の日の遊びとして、やりたい人だけが楽しむものとして、将棋が存在していた。それでも、必ず誰かの家に将棋はあったというくらい、常に身近に将棋が存在していた。

大学は東京の大学に進学。歴史が好きだったということもあり、考古学を学んでいた。
特定の地域において遺跡を発掘したりと、地域の歴史を知りながら、いにしえの生活や発掘されたものを通して過去を探求していた。

家業を継ぐ

24歳のとき、工場長が体調を崩してしまい、後を継ぐ人がいなくなってしまったそうだ。このことをきっかけに、天童に戻り家業を継ぐことになった。

継いだ当初に担当したのは、駒の木地を作る工程だ。
将棋の駒の原料となる木はイタヤ、斧折(おのおれ)、御蔵島黄楊(みくらじまつげ)、槐(えんじゅ)を使用している。この木を仕入れたらまずは3年間乾かす必要がある。

長い年月をかけて中の水分がしっかりと無くなるまで乾かすのは、時間が経って割れたり変形したりするのを防ぐためだ。駒になってから変形することがないよう、その前にしっかりと乾燥させる。
その後、それぞれの駒の大きさになるように、木の大きさを整えていく。

小さな駒を均等に整えていく必要があるため、小さな失敗は何度かしたそうだが、木地作りの皇帝は1年程で習得したそうだ。
その後、2年くらい木地作りの工程を担当した後、営業をやるようになった。

当時は安いものが売れ、作れば売れる時代だったと話してくれた。その為、将棋の文字も機械で字を彫り、なるべく手間をかけずに大量に将棋駒を作る時代だったそうだ。
ただ、そのような時代は長くは続かない。テレビゲームの普及から、子供が将棋をしなくなってしまったのだ。この将棋をしなくなったのは将棋そのものをしなくなったのもそうだが、ゲームで将棋をする子供も増え、将棋の駒を使って将棋をする人が減ってしまったのだ。昨今ではスマートフォンのアプリなどでも将棋ができる為、将棋駒を使って将棋をする人が更に減ってしまった。

そんな中、2000年くらいからは高級な将棋駒を少量生産する方に転換してきたのが中島清吉商店。大量生産の時代とは正反対の、手間隙かけて人の手でじっくり丁寧に字を彫っていく駒を生産してきた。

そして、2016年には藤井聡太氏の将棋ブームがおこり、将棋駒の在庫が全くない状況になったこともあったそうだ。


写真は名人戦で使われた、中島清吉商店が制作した将棋駒

今日の将棋と今後の将棋

最近では中島清吉商店にアジアの方、フランス、メキシコから将棋駒を購入しにくる方もいるそうだ。日本で古くから遊ばれてきた将棋駒をもっと海外の人にも伝えたいと中島正晴は言う。
2019年からは息子さんも家業を手伝ってくれることになり、将棋の普及に更に力を入れている。

最後に、今後の将棋の未来に関して教えてくれた。
将棋駒は今まで通り丁寧に高品質のものを作っていくが、将棋人口が増えないと今以上に普及はしない。
将棋を作るばかりではなく、普及する側のお手伝いをし、日本を初め世界で将棋を楽しめるようにしていきたいと、
真剣な眼差しで話してくれた。


写真は「馬」の字が左右反転している左馬というもの。馬が転じて「まう」となり、「舞う」に通じるという。天童市の独自の置き駒。

中島清吉商店
〒994-0046 山形県天童市田鶴町2-2-2
TEL:023-653-2262
営業時間:9:00〜18:00
定休日:毎月第2日曜日及び1月1日・1月2日のみ休業